みやまのお師匠は僧侶でもあります。
ですから仏教の教えというのも日々大事にされていますし、弟子たちに教える場を設けてくださっています。
そんなお師匠、いつでも質問してもいいよとおっしゃってくださいますが、その場で質問しないと答えをくださりません。
また、質問したとしてもすべて答えてくださるわけではありません。
なぜか?
お師匠はそういうものだと漠然と受けとめていたときもありましたが、このごろはこう思うのです。
人を見て法を説かれている。
毒矢のたとえ
お釈迦さまはよく比喩を使って弟子たちに話されました。
たとえ話をつかったほうが分かりやすいですし、強く記憶に残るからでしょう。
そして、お釈迦さまは人を見て相手の理解度に応じてわかりやすく話されました。
それを釈迦の対機説法といいます。
「毒矢のたとえ」はそのたとえ話の一つです。
お釈迦さまの弟子の一人にマールンクヤという哲学好きの修行僧がいました。その当時流行していた哲学的な問題についてお釈迦さまに質問しましたが、その問いに対してはっきりとした答えをくれません。
不満をつのらせたマールンクヤとお釈迦さまのやりとりです。
「師匠はいつも私の問いに答えてくださらない! 説こうとしてくれないし、聞くと黙られるし。もう我慢できない!! もう一度質問して答えてくださらなかったら弟子をやめよう」
思い悩んだマールンクヤはお釈迦さまの前に行って質問しました。
「師匠はいつも、この世界は永遠に続くのか、宇宙には限界があるのか、霊魂と体は同じなのか別なのか、人は死後も魂が存在するのかというようなことを質問しても黙っているだけ。もう耐えられません。答えていただけないなら弟子をやめるつもりです!」
真剣に訴えたところ、お釈迦さまはこう答えました。
「マールンクヤよ。私はあなたにそれについて答えるから私のもとで学びなさいと言いましたか?」
「いいえ・・・」
「それはどういうことかというと、ここに毒矢に射られた人がいるとします。医者を呼びましたが、ケガ人はこの毒矢を放った者は誰なのか? どんな弓でどんな矢だったのか? 分かるまでこの矢は抜かないと言ったとしましょう。この者はそれらの答えを得る前に毒が体にまわって死んでしまうだろう」
「なるほど・・・」
「マールンクヤよ。それと同じように、問いに答えないのはそんなことをいくら考え、答えを見つけたところで、それは悟りを開く上で何の役にも立たないからだ。そんなことをいくら追求しても人は生老病死し、苦しみ悲しむことから脱することはできない。そんな問答は正道の実践に何の役にも立たない。私の説くことはこの世の苦であり、それから抜け出す道である。それこそが悟りへの道を示してくれるからだ」
「そうだったのですね・・・」
「マールンクヤよ。私が答えないものは答えないものとしてそのままにしておき、答えたことだけをしっかり受けとめなさい」
「はい!」
答えたことだけを受け入れる
こうしてマールンクヤはお釈迦さまの教えを素直に信奉するようになったと伝えられています。
みやまも、お師匠は相手の理解度に応じてお話しされているのだと理解しました。
それからというもの、答えがでない、だせないものはそのままにしておき、自分のやるべき学び・実践を粛々と進めるようになりました。
まずはやるべきことを地道にやること。
これこそが毒矢のたとえから学びとったものです。