日蓮聖人は鎌倉時代の仏教の僧で、日蓮宗の開祖にあたります。奈良・京都中心だった仏教を東国においてきわめた人でした。
青年期から32歳まで比叡山の横川の地で勉学し、そしてついに法華経の教えこそが人々を救うことになるという確信に至ったのです。法華経を紐解いたのは日蓮ご上人なのです。
日蓮ご上人は貞応元年(1222)2月16日、小湊片海の地に誕生されました。その時、庭先から泉が湧き出し産湯に使った「誕生水」(※1)、時ならぬとき浜辺に青蓮華が咲いた「蓮華ヶ淵」(※2)、海面に大小の鯛が群れ集った「妙の浦」(※3)という不思議な三奇瑞が伝えられています。
※1 日蓮ご上人が産声を上げたとき、突然、家の庭先から清らかな清水が湧き出しました。現在は誕生寺境内の一角に清水を祀った誕生水の石柱を見ることができます。
※2 近くの砂浜では、ときならぬ蓮華の花が海辺一帯に咲き誇りました。以来、この砂浜は「蓮華ヶ淵」と呼ばれ、蓮華の花のように美しく輝かく砂を「五色砂」と呼んでいます。
※3 日蓮ご上人の誕生を祝福するかのように、海面近くにマダイが群をなして現れました。この一帯に生息する鯛は、日蓮ご上人の化身・分身として尊信され禁漁が守られています。大正11年(1922年)には国の天然記念物に指定され手厚く保護されています。
ご上人は幼名を善日磨といい12歳までこの地で暮らしました。文永元年(1264)大上人は母梅菊の病を祈願し蘇生させる。延命した母梅菊はそれを記念し「菩薩荘厳堂」を創建。その後直弟子日家上人が建治2年(1276)10月、大上人生家跡に一字を建立し高光山日蓮誕生寺と称したのが始まりです。
明応7年(1498)、元禄16年(1703)の2度の大地震、大津波の天災にあう。26代日孝上人は水戸徳川家の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称。しかし、宝暦8年(1758)大火により仁王門を残し全山を焼失しますが、弘化3年(1846)現在の祖師堂を再建します。
境内
海と山が近接したこの地に誕生寺はあります。
鯛にちなんだものが多く見られるらしいですが幾つ発見できるのでしょうか。
それではお参りに出発です/
総門
古刹ながらも比較的こじんまりというかコンパクトに感じますね。
日蓮宗のお寺は総じて質実剛健といいますか、豪奢とは程遠い清貧のイメージがあります。
誕生水の井戸
誕生水の井戸がまだ残っているのですね。
井戸の内部が見られるわけではありませんが尊い場所です。
仁王門
県指定有形文化財。五間三戸重層門白木造、宝永2年(1705)建立。平成3年大改修。間口8間。宝暦8年(1758)の大火の際、焼け残った誕生寺最古の建物。楼上の般若の面は左甚五郎作と伝えられています。間口約14.8メートル、奥行き約5.8メートルの五間三戸瓦葦重層門と県内最大規模となっています。
重厚〜!
時間にゆとりがあれば模写したくなるような気がしませんか?
セミトリーな美しさに見惚れてしまいます。
両側の仁王尊は上総の仏師松崎右京大夫法橋作。
威厳がありながらも少しふっくらした曲線のような印象でそこまで怖くはない気がします。
しっかりと礼を尽くして門を通らせていただきます。
風が爽やか〜
一陣の風が吹き抜ける参道です。
人は歩いているけれど静かな時間が流れる境内。
静謐の美というものがここにはあるように感じます。
鐘楼
日蓮大聖人御幼像
祖師堂
日蓮ご上人像を安置する祖師堂は、49代日闡上人が10万人講により弘化3年(1846)3月に完成。総欅造り雨落ち18間四面。高さ95尺。堂内に52本のけやきの柱と用材は江戸城改築用として、伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難し譲りうけたもの。平成3年、日蓮ご上人像を修理する際、解体したところ、胎内より今から600数十年前の造立を記す貞治2年(1363)4代日静上人筆の古文書と薬草が発見されました。古文書には「生身の祖師」の名と宗祖誕生の時と所が記されていました。
大聖人像を安置する御宮殿は明治皇室大奥の御寄進によるもの。堂内右側の天井に南部藩の忠臣相馬大作筆による天女の絵が描かれています。道内の天蓋等の仏具類は明治天皇御生母中山慶子一位局や大正天皇御生母柳原愛子一位局による御寄進。
祖師堂に入る前にお線香をと思ったらこちらのお寺のお線香の包み紙がとってもカラフル♪
しかも、火をつけなくていい!
斬新。
煙を体にまとわらせていざ祖師堂へと進みます。
と、今回はここまで。
また次回に続きます♡